Sweet tooth
エルがハウスから出ていくらしい。
ナナがそれを聞いたのは、夕飯の席でのことだった。
思わずガタンと音を立てて立ち上がったナナに、皆の視線が集まる。しかしナナは気にせず、話をしていたジョンたちに言った。
「ねえ今の、ほんと? エルここから出てっちゃうの?」
ジョンは何故かやけに得意気に答えた。
「ああ、本当さ。理由は知らないが、どうせわがままが過ぎてワイミーさんの手に負えなくなったんだろ」
あいつらしい話だよな、とジョンは取り巻きたちと笑う。エルを『名前を呼んではいけないあの人』扱いしていたこの前とはえらい違いだ。
憎らしいその顔をたたいてやりたかったが、職員に止められることは目に見えているし、何よりここに来た当初のエルを知らないため、ナナはぐっと怒りをこらえる。そしてゆっくりとまた腰を下ろし、フォークを取ると途中だったヨークシャープディングに手をつけた。あんなに美味しく感じていた料理が、今ではそう感じられず、あまり喉を通らない。
アメリアの視線を感じたが、今は顔を合わせて大丈夫だと笑う気力もなかった。
夕食後に訪れたワイミーの部屋は不在だった。ナナは代わりに職員たちにエルについて聞いて回った。職員たちは皆知らされていない様子で、あるいは黙っておくよう指示されていたのか――ジョンに漏れたので多分こっち――エルが出ていくことを知らないようだった。粘り強く質問してもさらりと受け流され、ナナは途方にくれる。
もちろんエルに直接聞きに行く手もあった。しかし、エルならあの淡々とした口調で、何でもないように言うだろう。エルに情がないという訳ではない。彼との会話から察するに、ある程度自分と人を切り離し、客観的に見ているところがある。ドライと言われそうだが、ナナにはその距離感が心地よかった。
――そのエルがいなくなる。
まだ本当かどうかわからないが、エルがいなくなれば、心にぽっかり穴が開いたような喪失感を感じるかもしれない。それくらい、エルとの会話は面白かった。もっと話したいと思えるくらいに。
その日の夜、結局消灯までワイミーは帰ってこなかった。ナナは、同室のアメリアが口を開くのを遮り、おやすみと呟いた後、ベッドに潜り込んだ。何度も寝返りを打つうちに、いつの間にかまどろみの中へ吸い込まれていった。
次の日の朝は、憎らしいほどの晴天だった。雲一つない空を背景に、カランカランと錆びた金色の鐘が鳴る。
ナナの心模様は、空模様とは正反対だったが、自力で起き上がって着替え、顔を洗うためアメリアと共に部屋を出た。
アメリアと他愛ない話――彼女が話しているのを聞いているだけだった――をしながら階段を降りているうちに、ふと玄関ホールの方から子供たちの声が聞こえてきた。顔を見合わせ行ってみると、そこにはテンガロンハットを被り、ステッキとアタッチケースを持ったワイミーが、多くの子供たちに囲まれて立っていた。
「ワイミーさん!」
ナナはエルのことを聞くべく走っていこうとしたが、子供たちの様子がおかしいことに気づき足を止める。皆ワイミーの帰宅を喜んでいるのではなく、悲しんでいるのだ。眉を下げて彼を見上げ、中には声をあげて泣いている子供もいる。
知りたくないという気持ちもあったが、ナナは勇気を出して、そろそろと止めていた足を進め、手前に立つトニーに小さな声で訊ねた。
「ねえ、なんでみんな泣いてるの……?」
こちらを向いたト二ーは、悲しそうな、同情するような、何とも言えない表情をして答えた。
「……ワイミーさんがここからいなくなるからだよ」
胸を鋭く貫かれるような衝撃が、ナナを襲った。
(ワイミーさんがいなくなる……!?)
この施設を設立したワイミーがいなくなる。私用で時々ロジャーに任せることはあっても、きちんとここに帰ってきていた彼が。
「あり得ない、そんなこと――」
絶対、とまでは言えなかった。皆の悲しげな顔、トニーの表情を見ればわかる。彼は嘘を吐いていない。
優しく子供たちをなだめるワイミーの表情は、いつになく穏やかで、いつになく普段通りだった――まるで最初から出ていくことが決められていたかのように。
ただただ彼を見つめ絶句していると、後ろからペタリと石の表面に何かが張り付くような音が聞こえてきた。聞き覚えのあるその音に、ナナは勢いよく振り返る。
そこにはやはり、エルがいた。階段をペタペタと降りる彼の姿に、ナナより遅れて振り向いたアメリアが息を飲むのを感じた。ぶかぶかのジーンズを少し摩りながら、彼はこちらに近付いてくる。彼に気付いたのは自分たちしかいなかったらしく、皆が振り向いた気配はなかった。
「……ねえ、エル」
――エルもワイミーさんと一緒に行くの?
目の前に立った彼にそう聞きたかったが、言葉は出てこなかった。現実と直面しても、まだ自分は逃げようとしている。顔を俯かせたナナに、今度はエルが口を開いた。
「私はワイミーさんと一緒に行きます」
知りたくない事実だった。ナナはそっと顔を上げて、エルの表情を見る。エルもまた、憎らしいほどいつも通りだった。彼は飄々と続ける。
「私の部屋をナナさんの部屋にしてしまっても構いません」
「……もうここには戻らないってこと?」
「はい、そのつもりです」
さらっと言われた回答に、ナナは雷を受けたような衝撃を感じた。一人部屋などどうでもよかった。あのコードが散りばめられた複雑な部屋に、エルさえいてくれればそれでよかったのに。
「……私、一人部屋なんていらない」
ぼそりと呟くと、エルは少し驚いた様に目を見開いた。
「なぜですか? 前あんなに欲しがってましたよね?」
「……何でも。もう欲しくなくなったの」
「……そうですか」
でもその代わり、とナナが続ける。
「私、将来絶対成功して有名になるから……まだやりたいこと見つからないし、何年かかるかわからないけど……その時は、私に会いに来てほしい」
将来のことなどわからないし、成功する気もなかった。しかし思わず口から出てしまったのは、そのくらいじゃないとエルが会いに来てくれないような気がしたから。
エルは必ず有名になる。有名になれば当然、いろいろな事件の依頼が舞い込んでくるだろう。忙しい中で自分を思い出してもらうには、自分もエルと同じくらい有名になるしかない。
エルはまたギョロリとした目を見開き、そしてほんの少し口角を上げた。その表情もまた、今まで見たことのない表情だった。
「……わかりました。約束します」
「じゃあ、指切り」
そう小指を差し出すと、エルもまたポケットから手を出して小指を出した。その長い小指に自分の小指を引っかける。エルの指は、意外にも温かった。「指切り」と言って指を切ると同時に、その熱も離れていく。
これで自分が有名にならなければいけなくなったが、ナナの気持ちは先程よりずっと、穏やかだった。
*
夢のような一日だった。
ナナ・ミョウジはリムジンの柔らかなシートにもたれ、今日の式典を思い浮かべる。
白に映える、深紅のカーペット、止まないフラッシュ、きらびやかなライトに照らされた豪奢な舞台。
その舞台で、一際輝く金色のトロフィーを手にした。アジア系としては珍しい賞。自分の名が呼ばれた瞬間の驚きと興奮は、一生忘れることができないだろう。スピーチで何を話したかは忘れてしまったが(まさか自分がとるとは思っておらず、スピーチの準備をしていなかった)。
「どうぞ」
コートを着たドアマンがドアを開き、ナナは滑らかなドレスの裾を持ち上げながら降りる。2月下旬の夜風は冷たく、コートの合わせ目を引っ張る。身を震わせながら、シャンデリアの眩いホテルの中へ入った。
ふかふかの赤い絨毯にヒールが沈む。零時すぎとは言え、パーティーの帰りなのか、まばらに人がいた。ナナはエレベーターに乗り、自分の部屋の階で降りた。
高級ホテルを取ったが、あいにくスイートルームを取る金はなく、スタンダードな部屋だ。アジア系は女優として使いづらく、これまでほとんど無名だったと言っていい。それが一夜にして世界中に名が知れ渡るのだから――正確にはノミネートされてからだが――人生はよくわからないものだ。
名前が呼ばれた瞬間を再び思いだしながら、一歩ずつ歩く。酔っているせいか、足下はふわふわと浮かんでいるような感覚だった。ああ、なんて素敵な夜だろう。こんな幸福を味わう機会は、なかなか経験できないんじゃなかろうか。
もっとこの夜が続くようにと、部屋まで少し遠回りをし、ゆっくりと角に差し掛かったときだった。
ふと前に人影が見え、ナナは思わず立ち止まる。
廊下の暖かい照明に照らされた、つんとした黒髪。白の長袖に、腰履きのゆるいジーンズ。その男はひょろりと高く、ジーンズのポケットに手を入れ、ずるずるとスニーカーを引きずりながら猫背気味に歩いていた。
その後ろ姿に、幼い頃の記憶が蘇る。あれは――
(……――エル?)
まさか。ハウスを出てから何の情報もなく、ロジャーに何度聞いても、どこにいるのかさえわからないと首を振られた彼が、今、ここにいるなんて。
呆然とナナはその後ろ姿を目で追う。彼はこちらに目もくれず、突き当たりの部屋に入っていった。ちらりと見えた横顔に確信する。あの大きな目、その下の酷い隈、形のいい鼻に薄い唇――エルだ。白いカットソーとジーンズしか着ない、猫背気味に歩く、跳ねた黒髪と大きな瞳と、何より真っ黒な隈を持つ人物は、ナナの知る限り一人しかいない。
ナナは自分の部屋を通りすぎ、彼の入っていった突き当たりの部屋へ近づいた。
ドアをノックしようとして、思わずクスリと笑みが浮かぶ。あの頃と一緒だ。エルは何も変わってない。
ドアから数センチ浮いていた拳で軽くノックすれば、中から老紳士の返答が返ってきた――さあ、まずは何から話そうか。
20150331